アメリカはミネアポリスで生まれたホセは、子供のころから音楽に囲まれて育った。アイルランド系の母は音楽をこよなく愛するヒッピー時代の寵児、父はパナマ人の現役ミュージシャンだ。
 トライブ・コールド・クエストの「ミッドナイト・マローダーズ」に心酔していた高校時代、彼はデューク・エリントンの音楽と出会う。そしてルイ・アームストロングとチャーリー・パーカー、ナット・キング・コール、チャールズ・ミンガスやセロニアス・モンクと、次々と開拓していった。完全にジャズの虜となったホセは、ホーンのパートを歌いながら歩くほどになった。そして、ついに出会ったのがジョン・コルトレーンだった。
「イクイノックスを聴いた時はぶっ飛んだよ。それからだね、歌詞を真剣に書くようになったのは。あの曲はマジで2000回は聴いた気がするよ!」(ホセ・ジェイムズ)。
 ホセが本格的にジャズ・ミュージシャンとしての勝負に挑んだのは2000年のこと。ニューヨークを活動拠点に選んだのだ。だが、うまく行かなかった。コネクションを作れず、自分の歌に興味を全く抱かれないことにホセは落胆し、歌うことに対する情熱を失ってしまった。その後丸三年、ミネアポリスに戻り、歌詞を書くことにそのクリエイティブな才能を注ぎ込んだ。そして、再びニューヨークに戻ったとき、歌うことを始めたのだという。
 2004年、彼はセロニアス・モンク・インターナショナル・ボーカル・コンペティションに出場し、ニュースクール・フォー・ジャズ&コンテンポラリー・ミュージックのスカラシップを獲得。そして、2006年にはロンドンで行われた国際ジャズコンペティションに参加。その際、ロンドンのクラブ“カーゴ”でセッションをして回ったとき、ジャイルス・ピーターソンにEPを手渡すことに成功したのである。一年後、ホセは再びロンドンに戻り、ジャイルス・ピーターソンのレーベルであるブラウンズウッドと契約にいたる。その後、DJでプロデューサー/サクソフォン奏者のシンバッドとスタジオにこもる日々が続いた。
 バブス・ゴンザレス、ビリー・ホリディ、ジョー・ウィリアムズ、ナット・コール、マーク・マーフィー、レオン・トーマスやアンディ・ベイと、脈々と続いてきたボーカルジャズの伝統。ホセ・ジェイムズは、それを守っているヒップな若い男性としてレアな存在だ。クラシック・チューンをただ再生するより、愛や人生を歌う曲を作ることを好むホセは、フリースタイル・フェローシップの「パーク・ベンチ・ピープル」のカバーで示したように、積極的にヒップ・ホップからの影響を受け、音楽に活かしている。
 テレパシーで通じ合えるほどの密接な音楽的な関係を築いている少人数のグループと、定期的にコラボレートしているホセ。だが同時に、新たに出会った友人と活発な関係を築くことにも熱心だ。
テリー・キャリアーにも似たソウルフルな暖かさは、曲をリリースする前から人々を魅了しており、世界中にファンが急増中である。官能的でスピリチュアルなジャズ・スタイリングで知られた故ジョン・ルシアンの後継者の呼び声高いアーティストだ。
 試行錯誤の末に完成した、ホセ・ジェイムズのデビュー・アルバム「ザ・ドリーマー」は2008年1月、ブラウンズウッド・レコーディングスより発売。ホセ・ジェイムズの本格的な第一歩が、この「ザ・ドリーマー」から始まる。