現代ミュージシャンで、ニティン・ソーニーほど広範囲に及ぶスキルで功績を残している人を挙げるのは難しい。ニティンはクラシックの教育を受けたピアニストであり、フラメンコ・ギタリストであり、最先端のクラブDJかつプロデューサーとしての顔も持つ。この事実は、彼がBBCエレクトリック・プロムとロイヤル・アルバート・ホールで開催された“正真正銘”のBBCプロムスに招聘され演奏した唯一のアーティストであることの裏付けといえるだろう。
ニティンは、これまでにロンドン交響楽団や中国国立バレエ団、ソニーのプレイステーション3など多種多様なクライアントのためにオーケストラ・シンフォニーやサウンドトラックを作曲してきた。彼はアート関連の賞を数多く受賞しており、いくつかの名誉学位の取得者でもある。テレビ番組では文化と時事問題のコメンテイターとして活躍し、紙媒体にも登場する。彼は芸術の擁護者であり、コミュニティーのリーダーとして尊敬を集める存在なのである。
今から20年前、ジェイムス・テイラー・カルテットのツアーメンバーとして下積みからキャリアをスタートさせたニティンは、自身のバンドや数々のオーケストラと共に世界中の国を訪れてきた。代表的な作品としては7枚のスタジオアルバムを出しており、中でも最も高い評価を得た『ビヨンド・スキン』(1999)は英マーキュリー・ミュージック・プライズにノミネートされ、サウス・バンク・ショー・アワードを受賞している。
10月8日リリース予定(UKでは10月13日)の8枚目のアルバム『ロンドン・アンダーサウンド』は、たぐいまれなる多様性と生命力に満ちた作品である。今作には、Natty(ナティ)Reena Bhardwaj(リーナ・バルドワジ)、Ojos de Brujo(オホス・デ・ブルッホ)、Anoushka Shankar(アヌーシュカ・シャンカール)、Rox(ロックス)、Tina Grace(ティナ・グレイス)、Aruba Red(アルーバ・レッド)、Imogen Heap(イモージェン・ヒープ)、Faheem Mazhar(ファヒーム・マザール)、Paul McCartney(ポール・マッカートニー)らがゲスト参加し、控えめな言い方をすれば広範囲の音楽的かつ文化的影響を取り入れている。ニティンの優れたプロダクションワーク、そしてその背後に隠されたストーリー性は、1曲1曲の音楽をまるで鋼の糸のようにしっかりとつなぎとめている。
“『ロンドン・アンダーサウンド』は、9月11日以降のロンドンに起こった変化、そして僕やその他の人々がその変化をどう受け止めているかをテーマにした作品なんだ。”とニティンは語る。“僕にとって今のロンドンは10年前とは全く別の場所になってしまった。その変化はとてもサブリミナルで目に見えないけれど、とてつもなく大きいものなんだ。ロンドンの偏極した姿は、僕を居心地の悪い気持ちにさせるし、特に1人のアジア人として脅威を感じるようになってしまった。大きな変化を迎えているこの都会の原動力を自分の音楽を通して探りたいと思ったんだ。”
アルバムは、北ロンドン出身のシンガーでラッパーのナティをフィーチャーした「デイズ・オブ・ファイアー」で幕を開ける。このアップビートな印象のリズムトラックは、電車のムーブメントを意識して作られたそうだ。ナティはジーン・チャールズ・デ・メネゼス射殺事件(ロンドン警視庁そばの地下鉄ストックウェル駅で、自爆テロ犯と間違われ射殺されたブラジル人男性)に巻き込まれた自身の経験を曲に結びつけている。‘僕が演奏をしたあの通りで、僕がいつも乗るあの電車で/発砲を目撃した/この街は色んな意味で変わってしまった/あの発砲の日から’。この曲は喪失感と混乱、そして一晩で変わり果ててしまったロンドンに対するノスタルジアな思いを連想させる。
“アルバムに参加してくれたアーティスト1人1人と、彼らがロンドンについて感じることを長時間かけて話し合ったんだ”とニティンは語る。“ナティは、奇遇にも7月7日にタヴィストック広場で爆発したバスの目の前にいたんだ。しかもその2週間後、彼は電車で射殺されたチャールズ・デ・メネゼスの乗っていた車両の2つ後ろにいたんだよ。わずか2週間のうちに、僕らの持っていたロンドンの概念すべてがひっくり返ってしまったんだ。僕にとってそれは今でもそのままなんだ。”
アルバム終盤にかけて収録されたシンガーのアルーバ・レッドをフィーチャーしたヘヴィーなダブステップナンバー「ラスト・トレイン・トゥ・ミッドナイト」で、ニティンは地下鉄のサウンドとリズムに再び帰っている。アルーバ・レッドは、ベースプレイヤーのジャック・ブルースの娘で本名ナターシャ・ブルースとしても知られる。“彼女が深夜の電車の中で女性が抱える危機感について話してくれたのがきっかけで、暗闇に潜む不吉で暗いものを想像させるムードの曲を作ろうと思ったんだ。”しかし、それよりもさらにダークな曲はブラジル系スペイン人のシンガーのティナ・グレイスをフィーチャーした邪悪とも呼べる雰囲気の「トランスミッション」だろう。ここでは、トリッキーがマルティナ・トップリー・バードを迎えてディープなトリップホップ世界を確立した曲を使用している。“これは、僕らが何の意味もない空虚な内容のラジオやテレビの解説に日々さらされている現実を描いた曲なんだ。” ニティンは言う。“ラジオの電波に乗って僕らの頭に直接入りこんできてしまう不必要な情報から逃れることはできないんだ。曲の中の‘ラジオから太陽の光を感じよう’っていう歌詞は、別の言葉に置き換えると全てが最高で素晴らしいと思わないかい?ってことなんだ。これはジョン・ピルガーが‘大量精神錯乱兵器’って呼んだものを指しているんだよ。僕らが現実を見つめることは不可能なんだ。他の国々で死者が出ている状況で、僕らの視点を決める判断材料と優先権は完全に奪われているから。コマーシャリズムに奪われたんだ。”
『ロンドン・アンダーサウンド』のストーリー構造を作り上げるのにあたって、ニティンと彼の思想や感情に影響を与える会話を交わした人物がいる。ここ数年は社会主義専門書店ハマースミス・ブックスを経営していた第二次世界大戦退役軍人のロナルド・グレイだ。この書店には、ニティンの永遠の政治的英雄トニー・ベンがよく訪れている。“ロナルド・グレイとは何時間も話しこんだよ。彼の戦争に対する観点を聞くのは本当に素晴らしい体験だった。彼は自分の本棚に並んでいる世界史の本の1冊1冊を完全に理解していたし、世界政治について驚くほどの洞察力を備えた人だった。”アルバムの中では、グレイの様々な話し声が間奏として曲間に散りばめられている。しかし、残念なことにグレイはアルバムリリース前に他界してしまった。生きていれば間違いなく自身のアルバムに対するコントリビューションを誇りに思う彼と、アルバム完成を一緒に祝えるはずだった。
ニティンは過去にもポール・マッカートニーとファイヤーマン・プロジェクトで仕事をしたことがある。それでも、「マイ・ソウル」のレコーディングのためにワンズウォースのニティンの自宅スタジオに元ビートルズのメンバーが現れた時はかなり特別な瞬間だったそうだ。“ポールが僕のスタジオに来た日、新聞の第1面は彼がアメリカにいる女性と交際をしているっていうニュースで大騒ぎだったよ。”とニティンは振り返る。“ポールはメディアが彼の写真を撮影できたことに驚いていたね。一体どこにパパラッチが隠れていたのか想像もつかなかったって。”もどかしい恋を歌ったこの素晴らしいラヴソングは、写真を撮られたことで‘自分の魂を奪われた’と感じたマッカートニーの経験がきっかけで生まれた。ただの迷信として忘れられていた考えだが、セレブ・カルチャー時代の到来とそれに伴うパパラッチの出現によって、最近また信じる人が増えているそうだ。
いくつかの難しいテーマを取り上げている『ロンドン・アンダーサウンド』だが、ニティンが過去20年間を過ごし今でも故郷と呼ぶロンドンに対するネガティヴな論争でないことは明らかだ。
最もアップビートな曲である「デイブレイク」は、ユニークな歌声ととてつもなく正確なリズム感を持つパキスタン人シンガーのファヒーム・マザールとコラボレーションしたものだ。“とにかく楽観的なものを作りたくて、僕にとってものすごくアクティブな時間帯である朝目覚めた時を表現してみたんだ。”とニティンは語る。“ワークアウトが大好きなんだ。朝はジョギングやキックボクシング、あとはヨガもやる。この曲は伝統的な古典インド音楽のフォーマットで書いたんだ。ファヒームの声のトーンは素晴らしいね。僕が尊敬するアーティストの1人であるヌスラット・ファテ・アリー・ハーンの声を思い出すよ”
イモージェン・ヒープをフィーチャーした「ブリング・イット・ホーム」も祝福ムードの際立つ1曲だ。ドラムンベースとしては珍しい6/8拍子のこの曲は、ロンドン市内1日旅行の過程を録音したものだ。“イモージェンと僕は、ロンドンを旅している1人の人間の息吹を録音して曲に取り入れたら面白いと思ったんだ。”とニティンは言う。“この曲には4つのセクションがあるんだ。1つは朝6時のビリング・ゲート魚市場での旅の始まり。昼間のバターシー・チルドレンズ・ファーム、大きなアジアンコミュニティーのあるサウスオールでの夜。あそこでイモージェンが歌った‘平等と不平等’というフレーズがすごく気に入ったね。夜中のカムデンでは、‘そんな歌をここで歌うな!’って怒鳴る人達の声を山ほど録音したよ。ほとんどの人がキレ気味だったと思うけど、結果的にはすごくうまくいったんだ。ロンドンっていう都会の持つ様々な面と同調することができた素晴らしい1日だったよ。”
アルバムの中で特に聴いた瞬間に魅かれる曲は、ロックス(ロクサーヌ・タタエイ)をフィーチャーした「ディスタント・ドリームス」だろう。ロックスはアデルと同年にブリッツ・スクールを卒業した、エイミー・ワインハウスっぽいロンドン・ソウル溢れる声の持ち主だ。“ロックスは、地下鉄に乗っている間はいつもバケーションについて妄想してしまうと僕に打ち明けてくれたんだ。”とソーニーは語る。“いつも妄想ばかりしてるって。その現実逃避の感覚を曲で表現してみたいと思ったんだ。オールドスクール・ハリウッドみたいな感じのストリングス・オーケストラを編成して、そこにスペインでレコーディングしたキューバー出身の素晴らしいトランペット奏者カルリトスの演奏を加えたんだ。マリアッチっぽいフィーリングを出すためにね。”そうしてその結果、ヒットシングルになることを十分に予感させる非常にメインストリーム的な魅力を持つ曲が出来上がった。
ティナ・グレイスをフィーチャーした「オクトーバー・デイズ」も似たような魅力を持つ曲だが、どちらかといえば10月に飛び回る1匹の気だるそうなスズメバチを見たことで生まれたニティンの切ない思いを表しているといえる。“思ったんだ。他のスズメバチはみんな何処かに移動したのに、その1匹だけが残されたんだなって。年齢を重ねるにつれて自分を支配していく孤独感の象徴みたいに感じたんだよ。”
全く異なった音楽を用いてそれに匹敵する感情の流れを演出しているのがインストゥメンタル・トラックの「シャドウランド」だ。声を楽器として使っているこの曲にはオホス・デ・ブルッホ、そして前作『フィルター』に参加したバルセルナ出身の9人組バンドがフィーチャーされている。クラブでDJをする時にフロア映えする曲だとニティンは言うが、同時にこのアルバムがクラブ・アルバムではないことをはっきりと指摘している。“このアルバムの曲を何曲かをフルオンのドラムンベースにアレンジしたクラブ・ミックスを作ったんだ。だから、時々クラブでサウンドチェックするのにクラブ・バージョンをかけたりするよ。” ニティンは言う。“重要なのは僕が色々違うものをやってみるのが好きだってことなんだ。自分にとってチャレンジになって音楽の持つ言葉をより追求できることを通して、新しいアイディアを表現できることにやりがいを感じるんだよ。”
彼の伝えたいことは、アルバム最後の精巧なインストゥルメンタル・トラック2曲によって強調されている。アコースティック・ギター、フルート、チェロのオーケストラ曲「ファーマメント」は、東洋と西洋のクラッシック音楽を自然な形で融合させた名曲であり、ニティンにしか成し得ない技量を感じさせる。この曲は、セントラル・ロンドンにあるホワイト・キューブ・ギャラリーに展示されている、有名なイギリス人彫刻家アントニー・ゴームリーによる同タイトルの作品構成からインスピレーションを受けたという。ゴームリーはこの『ロンドン・アンダーサウンド』にアートワークを提供している。今回のゴームリーのコントリビューションを心から喜んでいるニティンは、彼のノートPCに入っているゴームリーの刺激的な線画シリーズを誇らしげに見せてくれた。それぞれの絵はアルバムの1曲1曲のために描かれたものだそうだ。
アルバムの締めくくりを飾る「チャル・ケシ・レイン」は、シタール奏者ラヴィ・シャンカールによって有名になったラーグのニューアレンジで、名シタール奏者であるシャンカールの娘アヌーシュカ・シャンカールをフィーチャーしている。“チャル・ケシ・レイン”というタイトルにしたのは、去年ちょうど洪水が起こった時期にワンズウォースにあるスタジオにアヌーシュカが来たからなんだ。“とニティンは言う。
だが、様々な苦悩に直面している今のロンドンっ子たちにさらなる洪水は必要なのだろうか?
“全てを悲観的にとらえたいわけじゃないんだ。”とニティンは笑顔で言う。“もちろんロンドンに関してもそうだよ。この曲は浄化作用を持つものでもあるんだ。これは人の心を支配する全ての不純物を取り除くための音楽なんだ。”
デヴィッド・シンクレア
2008年7月